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日本橋

元木場 本材木町, 新材木町

元木場 2 / 4

 

1 佐久間町2 本材木町 3 亀堀 4 中之堀

 

 

本所深川繪圖 嘉永新鐫本所深川繪圖全 安政5年(1858)

江戸時代の地図は、基本江戸城が上になっている、江戸城に向かう川は、縦川(立川,堅川), 横向きは 横川と、基本命名される
上の地図は、北上に90°反時計回りに回転(unclockwise)にしている

安政5年は安政の大獄が始まった年、桜田門外の変は安政7年, 嘉永は安政の前の年号

毎度おなじみの絵地図なので、あまり載せたくはなかったが、1858年には木場が存在しているので、元木場に材木置き場が引っ越してきたのは、もっと前

 

深川総画図 中之堀公園観光高札より

 

元木場は、江戸時代に、日本橋 本材木町, 神田 佐久間町 の民間の木材置場が 幕府の政策で深川に換地となった地域で、地域内の町名には 材木町などがあった
当初は材木町?
その後、材木屋が木場が整備、これまた幕府の施策により木場に移動させられたので、元木場

 

 

 

 

本材木町 は、江戸町巡り によると、 【日本橋①039】本材木町, 【京橋①022】本材木町 のことらしい
よく出てくる 楓川 は、首都高速1号線 となっている、中央区観光協会特派員ブログ アーカイブ

今は亡き八重洲ブックセンターの古地図フェアで買い集めた古地図はすべてどっかに行ってしまったので、 国際日本文化研究センター 所蔵地図 から 怒られるかもしれないが切り抜き、書き込みしている

 

本木材町 明治四十年一月調査東京市日本橋區全圖 1907
 

本材木町 一, 二丁目

江戸時代からあった町名だが、江戸市中が東京15区になって、三丁目は京橋区になってしまった

 

地図にもあるように 現在の都営地下鉄 浅草線 江戸橋駅(現日本橋駅) から 八重洲橋(東京駅)のあった 八重洲通り までが 日本橋区

 

八重洲橋(東京駅)のあった 八重洲通り から 現在の都営地下鉄 浅草線 宝町駅 が 京橋区本材木町

 

 

 

 

本木材町 明治四十年一月調査東京市京橋區全圖 1907

本材木町 三丁目

要するに、都営地下鉄 浅草線 日本橋駅から宝町駅 の間、昭和通りと中央通りの間に 本材木町はあったってこと(首都高速1号線が楓川)

 

 

東京木材問屋協同組合 にも記載あり (2006年 組合100周年,理事長挨拶)

 

 

楓川(もみじ川) 橋巡り

楓川は、埋め立てられて首都高速1号線になっているので、
現存している橋は、上部に首都高が架かっている,もしくは空堀となった楓川に走る首都高を跨いでいる橋しかない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本橋川、江戸橋(昭和通り)の横から楓川は始まる

 

昭和通り江戸橋を渡ってすぐ左に入ると、兜橋、この先 東京証券取引所

橋の痕跡は何もない

兜橋 東詰に 兜神社、近くに日本橋日枝神社があり、かぶ守を領布しているので間違いがち

 

 

 


 

兜神社の向かいの楓川東河岸を南に進むと海運橋のあったところ

工事中で橋の向こうに行けなかった、楓川西河岸通りは”江戸・もみじ通り”という名前になっている、北向きの一方通行
南に向かって橋巡りをしているのに・・・

手前ビルの壁に”兜町 歴史地図”のパネルが貼ってあった

 

 

海運橋親柱 があった 中央区内の文化財 海運橋親柱(かいうんばしおやばしら)

区のページだと整備されているが、現在 植え込みに埋もれて、何が書いてあるか読めない

海運橋 はともかく、紀元二千五百三十五年六月造 か

 

 

ここに 案内板があるはずだが、植え込み埋まって見つからない

海運橋(かいうんばし)親柱, 所在地 中央区日本橋1-20先, 日本橋兜町3先
 海運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同8年に、長さ8間(約15m)、幅6間(約11m)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和2年鉄橋に架け替えられました。このとき、2基の石橋の親柱が記念として残されました。
鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和37年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。
 平成6年3月 中央区教育委員会

 


 

千代田橋 は永代通りに架かっていた橋

写真は東詰より日本橋(外堀川 呉服橋)方向

千代田橋から南の橋で廃橋になっていない
親柱のデザインがほぼ一緒
この親柱は首都高速工事の際新設されたものか

 

楓川-千代田橋より上流を望む

中央区立京橋図書館 

 


 

千代田橋の次は、元新場橋 なのだが、廃橋になって一切の痕跡がない、河岸道路にぶつかる道路もワカラナイ
ので、その次の橋 新場橋

中央区観光協会特派員ブログ アーカイブ によると、新場とは新肴場(魚河岸,町名は本材木町のまま)のこと、日本橋魚河岸の拡張部だったらしい

新場橋西詰から霊巖島方面、
橋梁長寿命化修繕工事の準備が始まってる
東に行くと昭和通り(抜けられない、外回り新橋方面にしか行けない)

 

 

 


 

久安橋

八重洲通りを東方に向けて撮影、写真左
首都高速1号線 宝町入口,その先に出口

震災復興街路 幹線道路第7号 八重洲通り
東に行けば、鍜治橋通り経由で永代橋
西に行けば東京駅八重洲中央

 

向かいに 楓川久安橋公園 があるが、何もない公園

 


 

 

宝橋

楓川宝橋公園があるが、バリケードで締め切り(喫煙所の工事?)で何も見えないが、何もない公園だったのだろう

西詰に“宝地蔵”の祠がある

 

西河岸通りは、宝橋で西にずれる

 

 


 

宝橋の次にあった、松幡橋
これが橋のあった所、弾正橋のすぐ北にある

制限高 3.4m

首都高くぐると西河岸通り
河岸通りは大抵左右逆向きの一方通行

 

 

 


弾正橋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

楓川の最後の橋 弾正橋、南北の東詰親橋柱
江戸時代、三つ橋と呼ばれていた(三つ橋跡) 橋の一つ

東河岸通り 江戸・もみじ通り

 

 

外堀川の鍛冶橋から名をとった鍛冶橋通りに架かっている

この先、楓川、桜川(八丁堀)、京橋川(首都高だと京橋JCT)、三十間川(首都高1号線 京橋IC方面) の四辻になる、

 

鍛冶橋通り西方を望むと、東京駅南口換気塔が見える、その先二重橋前

 

 

 

北公園部に 旧弾正橋の象徴化された模型

南公園に弾正橋記念碑 がある

 

 

 

 弾正橋は古く江戸寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼屋敷があったのがその名の由来のようである。
 弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、
江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。
 その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。
その時の橋は現在でも江東区富岡1丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、
平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。
現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。
その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、
平成5年2月に公園と一体化された。くつろぎのある橋として再整備された。
 尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。
橋梁の諸元 形式:ラーメン橋台橋, 橋長:33m, 有効幅員:23.2m (車道16m、歩道3.6m x2)
建設年次:大正15年12月 復興局施工 平成5年5月  中央区

 

油堀支川 八幡堀(埋立 八幡堀遊歩道)に架かっている八幡橋(水の都)は、当地から移設されたされたもの

 


 

永代橋から鍛冶橋通り、弾正橋手前を左折、
江戸時代、首都高だと京橋JCTからKK線に進むのが、京橋川、その先 三十間川は 明治36年(1905)、真福寺橋-紀伊国橋 間が廃川
京橋川から三十間川は直接京橋川から分かれている(南に曲がっていた三原橋の筋)

昭和5年(1930)に 楓川・築地川連絡運河が開削され楓川に接続、築地川連絡運河の先が、
一般道の京橋インターの 新金橋

 

東西の新富町と金六町(1931年に木挽町一丁目)から命名

 

 

築地八町堀日本橋南繪圖 1857

 

京橋IC 新金橋西詰に
三つ橋跡 歴史看板があった

 

 

 

 

 

三つ橋跡
弾正橋:京橋2・3丁目~八丁堀3・4丁目
白魚橋:京橋3丁目~銀座1丁目
真福寺橋:銀座1丁目~新富1丁目
 ここから北方約30mの地点には、明治の年末まで、北東から楓(もみじ)川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀が交差していました。
この交差点に近い楓川に弾正(だんじょう)橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と称していました。
 三つ橋は、すでに寛永9年(1632年)作成といわれる「武州豊嶋郡江戸庄図」に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ返遷がありました。
 明治末に真福寺橋、昭和34年(1959年)に白魚橋がいずれも河川の埋立てによって廃止され、弾正橋は昭和37年(1962年)、高速道路工事によって現在の姿となりました。
平成八年三月 中央区教育委員会 

 

楓川 橋巡り終了

楓川・築地川連絡運河はここが詳しい 中央区観光協会特派員ブログ
関東大震災から100年~復興橋梁「三吉橋」 廃止となった首都高 新富町出口 の所

高速都心環状線(築地川区間)の大規模なリニューアルプロジェクトがこれから始まる、
事業概要 京橋IC廃止,新京橋連絡路トンネル(新設)とか、完成 2035

ここまで材木屋の痕跡は一切ない

 


 

新材木町

 

日本橋川に架かる 江戸橋 の下流に 東入船川という掘割があった、東河岸に 新材木町の地名あり

 

 

 

 

 

ここは知っている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

都営地下鉄人形町駅から 江戸橋に進む、日本橋小学校の通りの先くらいで、路地をのぞくと公園発見

 

堀留児童公園 ※マルシェ開催中, 暇なときに撮り直すか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあわかってはいたが、名前は新材木町だったが、江戸時代も寛永十八年(1641)くらいから深川の元木場に木材は移転しているので、歴史看板には木材の話は全く書かれていない

 

金座通り(久松警察署の通り, 人形町から都営浅草線の通り)に戻って、江戸橋に向かう
(金座は、銀座じゃなくて きんざ, 日本銀行につづく道 今は何通り?)

 

 

結構長文、材木屋のことは一切かかれていない

 

 

 

 

 

 

 

 

通りの向こうに

親父橋 の歴史看板、当然のごと材木屋の記載なし

 

※日本橋小学校へ曲がる目印だった”立花医院”建替えたせいで分からなくなった(散歩やせんといて より)

 

江戸時代、本材木町から 元木場に、最終的?に、木場から新木場に、引っ越している

 

 

三越方面に向かう、昭和通り 江戸橋交差点
上を江戸橋JCT からの首都高速1号上野線
左に行くと本町IC
江戸時代のメインストリート本町通り(現 江戸通り)、その南、新材木町はこの辺り

 

左に橋を渡ると、昭和通り 高島屋方面(中央通りではない)
ここから都営地下鉄宝町駅までが 本材木町1~2,3丁目

 

 

 

 

江戸橋から日本橋を望む 
ここが日本橋魚河岸

日本橋北詰 東に
日本橋魚河岸市場発祥の地 石碑がある

 

 

 

 

そして看板

 


 

日本橋から見た
震災前の魚河岸(左側)と
日本橋川の様子、
奥は江戸橋

 

 

明治四十年一月調査東京市京橋區全圖 1907 築地
赤線は、その後 晴海通りとなった線(たぶん)

 

関東大震災後の帝都復興計画により、日本橋の再開発を始める、日本橋魚河岸は、築地市場(海軍省所有地) の開設 で移動、
魚河岸にあった乾物屋(海苔,鰹節など)は移れなかったので、そのまま日本橋にいるとかなんとか
築地市場は、太平洋戦争後 GHQに接収され、魚屋(乱暴な表現 一心太助たちとでもいうか)は難民となった

震災復興で、築地本願寺,60近い末寺のど真ん中に晴海通りが出来たせいで、本院と末寺が道路を挟んで分かれてしまい、末寺を借りて築地場外化となった、その後 築地市場は返還され魚屋は帰っていったが、乾物屋などは、戻れなく残った
築地市場は、豊洲市場に引っ越した が築地場外が残っているのはそんなわけ(権利がない)

 

築地は魚河岸があるのでOK、豊洲,大田には河岸がないので魚河岸を名乗らないで欲しい

木挽町(銀座)と築地の間が、築地川 首都高速1号線 、晴海通りの橋が 萬年橋、
場外(本願寺)と築地市場の間の通りの橋が 采女橋(うねめ) 、大江戸線築地市場前駅の通り うねめ

日本橋川の上を走る首都高速都心環状線は、地下化工事の真っ最中

 

 

 

 

首都高速道路日本橋区間地下化事業

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さくま平八

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