検索
佐賀

元木場 亀堀公園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清澄通り 海辺橋から 清澄公園の脇を 清澄橋に向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亀堀と仙台堀の接続部、何の痕跡もない

芭蕉俳句の散歩道 の入り口(海辺橋と清澄橋の遊歩道にある)

亀堀公園の北部は、低くなっていて、そこに降りていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲートボール場のような広場
階段を上がると、地区集会所がある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相生橋のあった道路、松永橋方面を見る(相生橋 江東モダン簡だより3page)
公園南部入口、歩道から堤防痕跡に沿って油堀に向かって進む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

途中、公園の入り口があった、そのまま進むと荷揚げ設備の跡、終端はガタガタしているが、公園はここまで

 


 

 いつの間にか改修された亀堀公園に散歩でうろうろしていると江東区土木部の歴史看板を発見、ネットに資料がないので、書き写し

この土地周辺は、江戸初期の寛永十八年(1641)に江戸市街で起こった火災に伴い、日本橋材木町神田佐久間町付近から移転されてきた「深川で最初の材木置き場」でした。
 江戸の大火の一因が、高積みされた材木だったことから、幕府は材木置き場を市街地の外に集めることとし、江戸市中に近く、水運の便がよい等の理由から深川が移転先に選ばれました。新たな材木置き場では、貯木と搬送のために碁盤の目状に堀が作られ、火災でも材木が燃えないように堀に沈めて貯木していました。
 その後、材木置き場は、元禄十四年(1701)に現在の木場公園のある場所に移転し、跡地は「蔵の町・深川」を担う流通の拠点として生まれ変わり。佐賀町周辺を流れる仙台堀・油堀を南北につなぐよう運河のネットワーク化が図られ、現在の亀堀となりました。

※内閣府によると「寛永の大火」という単一の大きな災害はなく、一般にはこの「明暦の大火」を指しているか、あるいは寛永期の度重なる大火と混同されていることが多いです
ということで、よく読むと木場の名残ではないかも

 

 

油堀との接続部(締め切り)

官民境界の護岸跡かと思ったが、公園の入り口があるし違うか

 

この護岸の途中から、旧B&G(現ホームセンター)に抜ける掘割があった様だが、なんの痕跡もない
先のゲートがあるところだろうか?

 

 

 

地理院地図Vector (試験公開) 1979~1983 亀堀は、すでに公園になっている、大島川西支川はある, 油堀を埋め立てて造られた 首都高速 9号深川線 は工事中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さくま平八

エリアカテゴリ

戻る