元木場(町人木置場)
木置場はもともと現在の中央区日本橋。京橋あたりにありましたが、寛永18年(1641)の大火による被災後に、現在の佐賀・福住・深川あたりに設置されました。木置場は元禄12年(1699)に幕府に召し上げられ、跡地は元木場14ヶ町となりました
木場
15万坪:木置場(元木場)が、元禄12年(1699)に召し上げられたあと、木場は永代浦の東に移すことになり、永代浦15万坪は埋め立てられて築地町16ヶ町となりました。
9万坪;材木商人がそのうち9万坪を埋め立て、元禄14年(1701)に木場町が成立
(猿江御材木蔵の土地に一時移転していた木場を移したとあるが、猿江御材木蔵の成立は享保年間(1716~36)?)
10万坪:享保年間(1716~36)に 開墾、千石, 石島, 千田, 海辺, 扇橋のあたり ※名所江戸百景 深川洲崎十万坪 歌川広重の浮世絵に書かれた
猿江御材木蔵跡 の説明で、享保19年(1734)に、本所横網にあった材木蔵がここに移り とある
(ゆこうあるこう こうとう文化財まっぷ 江東区地域振興部 文化観光課 文化財係)より
ここにでくる 本所横網の御蔵がなんなのか、ちょいと調べた
※お蔵入り(御蔵入り)は米騒動発生時、貯蔵していた米を幕府が市中に出さなかったことに由来して出来た舞台用語から
御蔵橋跡(墨田区)
御蔵橋は隅田川に面した松前伊豆守の屋敷のそばの入り堀に架かった橋で、この辺りにありました。
堀の突き当りは御竹蔵(または御蔵地)という幕府の木蔵でした。隅田川から船で運んだ木材や竹の荷を、この堀から引き入れて御蔵地へと収納するようにできていたのです。のちに米蔵としてしようされ、現在は国技館や江戸東京博物館などが建っています・・・
この歴史看板、東京水辺ライン両国発着場 歩道に立っている
御竹蔵の説明ならわかるが、水面貯木場だったとしたら、御蔵地(ヤード・倉庫)に収納という説明がよくわからない(岡土場?取扱品目が謎)
神田川河口なので江戸の水運の拠点なのは間違いない
江戸図正方鑑 元禄6 1693 本所御竹蔵, 御材木蔵
両国橋 御竹蔵の北に御材木蔵が別にある
松前伊豆守発見できなかったが
御蔵橋だった場所は看板のある辺り
川の向こうは御蔵(米蔵 今の蔵前)
両国橋は、新大橋が架かるまでは、大橋と古地図にある
(新大橋の架橋は、元禄6年12月7日(1693年1月4日))
新板江戸繪圖 天明元年-8年 1781-1788 本所御材木蔵
まだ 御材木クラ になっている
御蔵橋が架かっていた引き込み水路がわかる
天保江戸図 1830-1843 御米蔵
蔵奉行(Wikipedia)
1636年(寛永13年)5月1日に設置。1620年(元和6年)に創設されていた浅草米蔵と、
1734年(享保19年)に完成して1736年(元文元年)から買米を入れるようになった本所米蔵を管轄した。勘定奉行支配。
御米蔵ってことで、御蔵橋の架かっていた運河の位置から想像するにちっちゃくなった?メインの運河が本所割下水(北斎通り)になっている?
(本所御蔵~横十間川)
嘉永新鐫本所繪圖 1855
また 御竹蔵 表記
蔵前は、浅草御米蔵
改正増補東亰區分新圖 1879
明治12 陸軍御用地 となっている
(猿江は、土木局御用地)
五千分一東京図測量原図:東京府武蔵国浅草区須賀町及本所区横網町近傍 1884
ミツカン水の文化センター ― 本所割下水と葛飾北斎
このサイトを発見、素晴らしい・・ 残念ながら25’12月で活動終了
両国中グランドのフェンスに本所御蔵跡の歴史看板(墨田区教育委員会)があった
ちゃんと地図が書いてある
米価高騰で起きた江戸初の 享保の打ちこわし直後に建設された<幕府の米蔵です 享保19年(1734)に竣工
いきなり掘割が地図に登場
ということで、この御材木蔵(本所)が、享保19年(1734)に、猿江御材木蔵を作り移転したとして、元木場の成立 ましてや木場の成立にかかわっていたとも思えない(個人の感想です)
御米蔵 とだけ地図に表記されているので ここが越中島に引っ越した?
日本橋にあった元材木町,新材木町、神田佐久間町は、幕府の命令で、元木場に引っ越した
元木場は、幕府の命令で、木場に引っ越した
木場は、東京都の命令で、新木場に引っ越した
(官有)
幕府の御蔵は、本所から猿江に引っ越した
林野庁の物となった猿江・豊住は、潮見に引っ越したってこと, 筋が違う
日大一中の玄関わきの、置いてけ堀・御竹蔵跡 の看板をついでに見たら、
御竹蔵の周囲の堀が”置いてけ堀”だったとか

さくま平八








